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柚子の闘病日記・no27



5月5日火曜日
 こどもの日の祭日、gre はまた仕事。
雨の予報だったけれど、朝方は降っておらず、普通にお散歩することができた。
支度のある gre には甘夏とかぼすを連れて先に帰ってもらい、私と柚子はのんびりと歩く。
頑張って、折り返し地点から家まで歩いた。
食事もよく食べたし、私が雑用をしていた時も一度だけ寝室のドアの前にきていたけれど、落ち着いていた。

このところ、余りに落ち着いているので、息をしていないんじゃあないかと度々確認してしまう。
どきどきしながら…、静かにそばに寄ってみる。
口で呼吸をしているために、口が開いた状態で舌が出ている。
不安にさせる姿なのだ。
もし、その不安が現実に起こったらどうするだろうと、思う。
きっと人工呼吸だってしてしまうかもしれない。

今朝は、昨日行なわれた、忌野清志郎さんのロック葬の模様をワイドショーでやっていた。
泉谷しげるさんは、清志郎さんの死を認めたくないから葬儀には参列しないと言っていた。
けれど、どうなのだろう。
家族という近い存在をここ何年かでなくした私は、”おくる”、”悼む”ということの意味が、少し身近に感じている。そして私なりに思うことがある。

葬儀は、残された家族を励ます意味が多く含まれているような気がしている。
葬儀が終わると、いなくなってしまったという実感を、少しづつ感じる日が家族には必ずやってくる。

その日々はとても辛い。
だからその日に向かう前の葬儀に、友人である人たちが駆けつけてくれるということは、大変な励みになるのではないかと思う。
それだけ想われていたと、家族は故人をリスペクトするような気がするし、おくりだす人がたくさんいてくれることで、家族は、その辛い日々を前にして救われる気持ちがするのではないかと思う。

清志郎さんのように、特別なファンではなくても、その音楽性やスタイルを私のように尊敬していた一般人が多くいると思う。
有名人は、どれだけの人にその死を悼まれるのだろう。
その数が届き、天国に行く道は、華やかなのだろうか?

犬は孤独なのかもしれない。その死を悼むのは、飼い主である家族だけだもの。
それだけに、一緒にいる時間は、大事にしてあげたい。

逝ってしまうものは、もうそこに思いはなく土に返ってしまうのだろうか?
逝かれたものは、その死によって、たくさんの思いを育てるという意義ある時間を持つことができるのかもしれない。
成長だけが、人としての存在を養うものではないかもしれない。
最終章は、多くのことを考え、感じる時間をもたらしてくれるのかもしれない。

兄弟が多い母の葬儀で思った。
兄弟がたくさんいるっていいなぁ~と…。
中には先に天国へ旅立ってしまった人がいる。
でも、その家族たちが参列してくれた。

私自身はどうなのだろう。
さみしい最期なのかもしれない。
最期の形が変わってきていることは、兄弟が少ないことや、家族関係が希薄なことも影響してきているのだろうと想像した。

柚子、朝方、鼻粘液から鮮血が見られた。
昼時、水呑場にいるので見に行くと、口内が真っ赤であることがわかった。
鼻からではなかったのか?
自分で水を飲まず、立ちすくんでいた。
飲もうという素振りがないので、シリンジを使って何回も口腔内に水を送り込み、ゆすいでやった。
この出血は、また、癌細胞の自壊なのか?それとも進行ということなのか?
落ち着いている様子というのは、衰弱なのか…。


  

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