今から約310年前の元禄14年(1701年)、
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)を
切りつける事件が江戸城の中で起こりました。
吉良は少し傷を負っただけでしたが、浅野は罪人とされ、すぐに切腹という処分が決まり、その日のうちに死に、
つぎの日には、浅野が大名をしていた赤穂城が幕府に取りあげられることに決まりました。
もとはと言えば、吉良の腹立たしい行いのせいで、浅野が切りつける行動に出たのですが、
処分があまりにも一方的すぎ、しかもきびしいので、浅野の家来たちは納得がいきませんでした。
赤穂城から追い出さればらばらになった浅野の家来たちは、ひそかに連絡を取り合い、
江戸城内の事件から約1年9ヶ月後の元禄15年(1702年)12月に、
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)をリーダーにして47名の者が、
吉良の家に押し入り、吉良の首をはねて、殿様(浅野)の仇討ちをしました。
年末になると、歌舞伎を始めとりあげられる”忠臣蔵”
12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日です。
その翌日、いただいたお菓子は、
吉良邸討ち入りを果たす赤穂の四十七士のリーダー、大石内蔵助が叩いていた陣太鼓、
右二つ巴紋が象徴的にコラージュされているものでした。
吉良邸討ち入りを果たす赤穂の四十七士のリーダー、
大石内蔵助が叩いていた陣太鼓の流派として有名ですが、
実際には山鹿流陣太鼓というのは存在せず、物語の中の創作だそうです。
ちなみに『仮名手本忠臣蔵』の”仮名手本というのは、
いろは(仮名)47文字が赤穂浪士四十七士にかけられたといいます。
それは、この暗号が広く知られていることを前提として書かれたとする説をとなえる者がいるからで、
七五調の区切りではなく、七文字ごとに区切る書き方で区切りの最後の文字を縦読みすると
「とか(が)なくてしす(咎無くて死す)」となり
これをもっていろは歌には作者の遺恨が込められているというのです。
大石内蔵助が叩いていた陣太鼓巴にある巴紋。
水が渦巻いている様子を形にしたもので、いわゆる渦巻で、
いまでも神社や民家の屋根瓦などに巴紋が刻まれているのは、巴紋が水に通じていることから、
火除けのおまじないとしているとされています。
また、武士の弓手に巻く皮具-鞆(とも)から、また、古代の宝器であった勾玉が巴形で、
これが神霊のシンボルに移転したこともこの紋が広がった要因のようだと言われ、
神社などが巴紋を多く用いるようになったともいいます。
末富さんのお菓子はこなし製。
銘がまた、ひとひねり。
白、ピンク、こしあんのコントラストも美しい、師走を彩る艶やかな上生菓子でした。
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